"暁坏(あかつき)"です(世良)
世良公則さん(以下「世良」):やっと会の名前が決まったんですよ。"暁坏(あかつき)"です。みんな伝統ある世界でそれを自分のものにしつつ、なおかつ新しいものを作っていくエネルギーも持っている。いわゆる「夜明け」という意味を込めたんだよね。
加藤亮太郎さん(以下「加藤」):日本は今ががんばりどきだっていうことも"暁坏"には込められていますよね。
見附正康氏(左)、加藤亮太郎氏(右)
世良:うん。今回の大きな震災が起こる前も、日本って少し元気がないというか閉塞感があるというか、新しいものがなかなか生まれてこなくて。「あの頃はよかったね」みたいな懐古主義的な時期に入っていってたんだよね。
そんな時期に、僕はみんなの作品と出合って僕自身も土に触れて、それで余計にみんなの作品を感じるようになって。で、「ここにこそエネルギーがある」って思ったのね。
"暁坏"のコメント
(注1)にも書いたんだけど、幸兵衛先生
(注2)もおっしゃっていた『人間みな土に還る』って言葉。その土から生まれてくるもの。そして、みんな焼き尽くしてしまう炎。人間も焼かれて天に帰っていくんだけど、その炎が形作っていく、色を生み出していく、そういうところに密着している人たちなんだなっていうことを強く感じたときに、閉塞感のあるこの時代に、誰もが帰っていく土と、すべてを浄化させてしまう炎で「もの」を作り出している人たちっていう感覚っていうのは、特にみんな30代という世代のせいもあるんだけど、これからぐっと"RISING SUN"で陽が昇ってくると、彼らがすべてを照らしてくれるんじゃないかなって。
それは陶芸という世界にとどまらず、海を渡った文化だったり、夜明けだったりというイメージが僕のなかで拭いきれなくって。で、"暁(あかつき)"っていう漢字に出合った時に「これで何かできないか」って亮太郎くんに相談したんだよね。
加藤:そもそも展覧会のタイトルが"RISING SUN"で、陽が昇るっていうのが世良さんのなかでのこだわりだったんですよね。それで"暁(あかつき)"。で、そこに器という意味の「坏・つき」を付けて"暁坏(あかつき)"と。
世良:うん。ちゃんと土へんが入っていてね。その時に「あ、いいかもしれないな」って。
そもそも、会の名前だとかタイトルだとかっていうものにそんなに重きはないんだよね、ただの名称に過ぎないから。
でも、それがちゃんと根を下ろした人たちの会だと、信憑性があるというか、リアリティがあるというか、そこでみんな納得がいくじゃない? これは"YOUNG BLOOD"
(注3)のときからそうなんだけど、陶芸をやっているなかでも、これはもっとも地に根を下ろして受け継いでいるからこそ次に進化していく、っていうそこの根元にあるものをしっかり見すえてやっている人たちだからこそおもしろい、と思うんだよね。
僕もいろいろな個展やグループ展に足を運びますが、そういうメンバーが10人というのは......まずない。多分、今この世代で考えられ得る最高の人たちが出てきてくれているんじゃないかなって。
加藤:そう言っていただけるとうれしいですね。
見附正康さん(以下「見附」):うれしいですね。僕からすると、ほかのみなさんは、作品も知っているスゴい方たちだったので、(メンバーに入って)スゴくうれしかったですね。
世良:このあいだ九谷焼の展覧会に行ったら、たまたま見附くんは参加していなかったんだけど、そうそうたる顔触れの方たちが「今回ここに見附くんの作品がないのが残念なんだけどね」っておっしゃっていて、すごくお互いを理解し合っていて、そこに個性の尊重があってってのを感じたんだよね。
見附:東武池袋で行われた「九谷焼伝統工芸士展」ですね。(注4)僕、今年は2月に阪急梅田があったので、東武のために作る時間がなかったんです。
世良:ああいった中でも、僕らの先輩にあたる世代の方たちが「見附くんの作品がないのが残念」っておっしゃっていた事がうれしかったですね。
見附:うれしいですね。
見附正康氏の作品
加藤:(見附さんの作品を見ながら)僕らの感覚からすると、こういう繊細な絵付けっていうのは、歳をとると老眼になって見えにくくなるでしょ、どんどん衰えていくから描けなくなっちゃうんじゃないかっていうイメージがあるんだけど、そんなことはない?
見附:そうですね。年代年代でその線の感じも変わってくるんじゃないかと思うんですよ。
加藤:実際、見えるの? 老眼になってからも。
見附:僕の師匠の武山先生(注5)はちゃんと見えて描いています。
加藤:はあー。
世良:意外に目を酷使するんだけど、名人になる人って持っているものが違うんじゃないの? もともと目がいいとか。
加藤:そうなんですかね。僕もこれは通説として聞いている話なんですが、九谷の人は午前中に絵を描いたら、午後は休まないと目が疲れてやっていけないって......。
見附:(笑)いえ、全然ないです。大丈夫です。一日中でも。夜までやっちゃうんで。
加藤:じゃあ、それは通説だと......(笑)。
(一同笑)
見附:はい。みんなそんな休んでいないです(笑)。
加藤:そんな噂を業界では......。そうなんだ。老眼でも大丈夫なんだ。
世良:見附くんが言ったように線が変わるのかもね。シャープな線が違う感じに。
加藤:こういう超絶技巧の線は描けなくなるってこと? 線がプルプル震えるとか。
(一同笑)
見附:そんなんではなくって、なんていうんでしょうね......。
世良:どんどんオリジナルになっていくんだろうね。
加藤:それはそうだろうね。加齢による、老化による障害とかは関係ないと。
見附:それは出てくるだろうとか思いますけど、やっぱり......。目、大切にします。
(一同笑)
世良:形を作る方とコンビを組んでやっているわけじゃない?
(注6)やっぱり土を触るってそれなりに重労働だから、それもやって絵も描くてのはやっぱり大変だよね。
見附:それで分業になっているんだと思います。
世良:そりゃあそうだよね。
加藤:市之倉さかづき美術館(注7)に展示してある幕末の染付がものスゴく細かいんですよ。
見附:見ました。スゴかったです。
加藤:見ました? そう。染付と赤絵の違いはあるんですけど、もう髪の毛一本一本のような細かい絵付けで、さっきのような話を聞いていてホントに30代くらいまでしか描けないって聞いていたんですよ。歳取ると老眼でぼやけて見えるのでもう描けないと。筆の距離感が合わなくなるからって。そういうものなんかなぁって。
世良:きっとそういう方もいたんだろうね。すごい名人だったんだけど、加齢によってその能力を発揮できなくなって筆を置かれた方が実際にいらっしゃったんじゃない? それで周りが気にするようになったとか......。
加藤:若い人は絵付けをして、歳を取ったらろくろ師になるとかね。
見附:へえー。そうなんですかぁ。
世良:とりあえず見附くんはまだ大丈夫なんだよね(笑)。
見附:はい。大丈夫です。師匠もまだ全然バリバリ描いていますから。
加藤:先生は60代?
見附:それくらいですね、先生は。結局は好きなんだと思うんです。
加藤:こういう細描のスタイルってのは昔から九谷にあって、武山先生、その先生の師匠って感じで続いて来ているの?
見附:昔からあるんですが、武山先生は一代なんですね、父親がやっていたとかそういうのではなく。
加藤:いわゆる古九谷というか、紫や青を使う五彩の世界と赤絵の世界っていうのは、けっこうハッキリ分かれているの?
見附:はい。そうですね。いちおう九谷焼技術研修所という学校では、(注8)絵付けだったり五彩、赤絵とひと通り習うんですけど、そこで僕はいちばん赤絵に興味を持ったというか......。
加藤:いちばん細かい世界だよね。
見附:そうです。そうです。
世良:いちばん細かいし、赤一色っていう。一色だからこそのものスゴい広がりっていうか。僕はこの赤絵っていうのは小さな作品でもものスゴい広がりを持った空間を感じるんだよね。盃と大皿で空間意識が変わらないと思うのよ。
加藤:あ、そうそう。そうですよね。
世良:特に見附くんの世界ってそれをスゴく感じるのね。空間認識が狂うんだよね。形を見ると盃だから小さいでしょって思うんだけど、絵面だけ見るとどこまで広がっていくんだろうと。どんだけの大きさなんだって(笑)。
加藤:引きずり込まれるようなところ、ありますよね。
見附:ありがとうございます。一度、盃を雑誌に載せていただいたんですけど、皆さん盃とは思わなかったみたいですね。お皿とか、鉢とか。そういうことがありました。
世良:そういう意味では亮太郎くんたちがやっている釉薬の世界では、たとえば志野であったり引出黒であったりしても、あれは黒は黒なんだけど覗きこむとものスゴく広い世界があるじゃない。僕らのはヘタくそだから覗くと世界が狭いんですよ。
加藤:なるほど。
見附:カッコいいですね。カッコいいです。
世良:(加藤さんの志野茶碗を見ながら)覗くと広いんだよね、で、見るたびに違うんだよね、世界が。でね、ぶぅーんって広くて外から見たのと全然違う空間なんだよね。いい形だよね、これもね。
加藤:まあ、お茶碗っていうのはやはりほかの器とは違うところがありますからね。なんていうか、一つの碗のなかに世界があって。一生あっても足りないってよく言われますけどね。
加藤亮太郎氏の作品
世良:そうだね。僕の海外の友人たちも焼物大好きなんだけど、いい作品を入手したときにプレゼントで贈ってあげたりすると、ものスゴく喜んでくれるのね。だからさっきの話に戻ってしまうかもしれないんだけど、土と炎というもっともネイティブなものからできたものの魅力があるというか。しかも作家それぞれ10人とも、たとえば同じ志野でも全然違うものが焼上がってくるおもしろさがある。今回、種子島から池田くんが参加してくれるけど。
(注9)彼の織部はすごく瓢げているというか、トラック描いてあったり......。
加藤:池田くんは世良さんが以前から興味をもたれていた作家なんですよ。
見附:あ、そうなんですか!?
世良:もともと人気作家だし、作家のなかでもひときわ瓢気精神のある方だし、ある意味、織部の正当な精神を種子島という独特な環境で......。
加藤:なんでああいったものが種子島から出てくるんでしょうね? 話してみたいですよね。
世良:うん。そういうのが僕もわからなくて、どんな人間なんだろう? と。
加藤:うん。電話でお話しただけなんですけど、相当変わった感じですよ。失礼ながら(笑)
(一同笑)
世良:うん。かなりユニークだと思う(笑)。辻村家とはまた一線を画した......。
(注10)
加藤:(笑)いえいえ、辻村さんところは至極まっとうな......。
世良:まあね(笑)。いや、でもね、一般人からしたら「あ、こんな人いるんだ」みたいな超絶な人たちだなと思うんだけど。それはまた山奥と島の違いがあるんと思うんだけど。大らかさとかね、そういうところは秀でていると思うんだよね。
形もまた壊れかけているんだけど、絶妙にそこに片足で立っているバランス感覚があって。色もそうだよね。どこまでが彩色していて、どこまでが土の色なのかって......。実は全部彩色だったりとか。
加藤:うん。高台(こうだい)のところまで全部絵を付けているし。
世良:なんか自然児のようでいて、スゴく緻密にバランスよく絵が描かれているし。そういうトラックだったりオッサンだったりが描かれているんだけど、その反面、ドクダミだとか風船カズラが描かれていたりして。僕はいいなって最初思ったのね。そういう出合いだったのね、彼の作品とは。
加藤:ちょっと、突き抜けてる感がありますね(笑)。何なんでしょうねえ......。
世良:うん。作品に出合うたびにおもしろいんですよ。話をするまでもなかったりするのね。
前回、山田想くんが来て話をしたり、山田大くんと話をしたり、亮太郎くん、唯くんと話をするんだけど、結局みんな根を張っているってところでは尋常ではないね。おもしろい。重心が低いっていうかね。かといって、そこから出てこないかっていうと意外と出てくる、現代の若者なんだよね。
音楽やってて思うんだけど、僕は50過ぎてて30数年もこの世界にいるけど、昨日デビューした若い子と同じ時代に同じ空気を吸って、同じように日の出と日の入りを見ているから、僕が過去の人間で、昨日デビューした人間が今の人間で、まだデビューしていない人間は未来の人間だとは思わないのね。全部ひっくるめて今の人たち。
加藤、
見附:そうですね。
世良:みんなの上の世代、40代から70代、80代の陶芸家も今の"暁坏"のメンバーもみな今を生きている陶芸家なんだけど、そのなかで特に"RISING SUN"的な、陽が差していってるイメージっていうのを、やっぱり今の君たちに感じるんだよね。
加藤、
見附:ありがとうございます。
世良:こ、このエネルギー......オレにほしい! みたいな。
(一同笑)
世良:僕は僕で音楽のなかでそのエネルギーを発散しているつもりなんだけど、こうして焼物を作ったときに、なんかこれで音楽を自分のなかで焼き締めていける、みたいなね。そんな気分もあるね。
加藤:さっき、はからずも世良さんがおっしゃったように、土、火、ほかにも水も木も金属もすべて使って焼物って作られますけど、原初からそこにあるものを使ってものを生み出すっていう力強さというか、そういう素材からもらうパワーもありますし、人間の力だけじゃなくて「木火土金水」の力。
もちろん偶然もありますが、そういうものがいろいろ合わさってできてくるのがこの焼物になるんで、大げさな表現をすれば、奇跡的な存在なんだと。
これがここにあることがすばらしいことなんだと、そういうものであると思うので。
世良:そうだね。もともと音楽なんてものも、太古の人間はいわゆる自然だったり神に営みをすべて握られていて、暗くなったら寝る。明るくなったら起きる。そういう生活だったよね。
歌詞ともメロディーともつかないもので祈ってというのが元々の音楽の形なので、そこの原始的なエネルギーってのを、音楽を作るノウハウでやってしまって、「衝動」を忘れがちで進んでしまうことが往々にしてあるんだよね。
そういう時に特にみんなの作品を見たり、幸兵衛窯にお邪魔して作陶させていただいたりすると、自分のなかに蘇ってくるんだよね。音楽ももっともっと原初的な「衝動」だったり。今日、雨降ったから狩りに行かない的な単純なところを、もう一度体現できるのってどこかなって思ったら、僕は土に触れることだったんだと、やっとこの2年くらいで気づいたんだよね。
加藤:まさにそうですね。原初のものに帰るっていうか。
世良:うん。(見附さんの作品を見ながら)で、また見附くんの世界っていうのはスゴく緻密な絵を付けていく。幾何学的な文様があったり。基本的にどうやったらあの絵柄をあそこまで集中を持続させながら、反復しながら無限の世界観を作っていくの?今度はその「衝動」にプラスして空間的に際限なく広がっていくでしょう? 見附くんの尺ってどこまであるんだろうって思うんだよね。
見附:どうでしょう......。あんまり下絵を描いたりしないので、けっこう頭のなかに浮かんだものを、アタリはつけて広がりがズレないようにはしますが。けっこう描きながら変わっていくことがあるんですよね。最初はこういう雰囲気にしようと描きだすんですが、そのうち「あ、こうしたほうがいいかな?」とか。
見附氏(左)の作品を覗きこむ加藤氏(中央)、世良氏(右)
世良:それは多分、言葉とか活字で見聞きすると「あ、なるほどね」って思うんだけどね。作品を見ると、途中で「あ、こうしたほうがいいかな」ってこっちの方に進んで行きましたっていうけど、こんなにバランスを崩さず、文様というか絵というかが広がっていけるものなのかなって思うんだよね。見附くんの描いているものがあなたの頭のなかでどうなっているのか、その感覚がまったく掴めないんだよね。
見附:......僕そこまで考えて描いていないんですけど(笑)。
世良:自分の世界だから自分じゃ当たり前なんだよね。だから文字でこれを読んだ人は字面では理解できても、そのあと作品を見たら、その言葉が余計わかんなくなると思うんだよね(笑)。
見附:でも、なんかね。「スゴくクレイジーな仕事ですね」って言われるんですよ......。
加藤:(笑)たしかにたしかに!
見附:......手で描いているんです、としか言えないですよ。
加藤:この細かい七宝みたいな文様はわかるんですよ。それよりね、この長い線がスゴいと思う。こういう線にブレがないんですよ。細かいのを埋めていくのもすごいけど、それ以上に長い線がスゴいよね。
世良:イメージはあるにしても、見附くんの目の前にある映像と、心のなかにある映像のブレなさがスゴいね。
見附:でも、描いていると全体のバランスがわからなくなるので、遠くに置いて見ることがあります。どこか強いところがあったほうがポイントになっていいかなとか。
加藤:(見附さんの作品を見ながら)これは上絵で何回焼いているの?
見附:えっと......4回焼いています。
加藤:4回焼いているんだよね。1回焼いて、離れて見ますよね。その離れて見るって重要なの?
見附:そこよりも、仕事がしやすいってのが。
加藤:あ、そこなの?
見附:(笑)はい。触れると消えちゃうので。
世良:一回焼いておけば大丈夫だと。
見附:そうです、そうです。線だけで(窯に)入れるときもあります。それを見て、ちょっとここをポイントにとか。
加藤:うん、だから焼いているその間、時間あるわけだよね。そこで考えられるんだよね。
見附:そうです。一気には描きませんね。いろんな作品を同時に作っていく感じですよね。
加藤:それこそ、一回手を入れたものにまたアレンジを加えて、で、焼いてみて、また離して見て、アレンジを加えての繰り返しだよね。おもしろいよね、それ。
世良:なるほどね。音楽でいうと1人マルチプレイヤーで、ダビングしてダビングしていくんだね。そうすると描いてから「しまったー! 多過ぎた」ってのもあるんだよね。
加藤:でも焼かなければ消せるわけだよね。
見附:そうです。最終的には「あ!」って思って消すときもあります。描き過ぎちゃうと、なんかこてーっとしたものになっちゃうので。金が入り過ぎちゃったりとか。
世良:今回パンフレット用に見附くんの作品も撮影させてもらったんだけど、
(注11)金の入り方が絶妙だよね。入りすぎると、派手やかになってしまうから。その線のよさや図形のよさよりも、派手やかなものみたいな。要するに見附くんの描いてる文様がそうなったら違うじゃない。
見附:そうですね。
世良:派手やかな器になってしまって、金が殊更に誇張されてしまうと、ただの「立派なもの」になっちゃうんだけど、そこのバランス感覚もスゴく重要なんだよね。ジーッと見ていると金がこの世界をギュッと締めてくれているというのもあるしね。
加藤:いわゆる明治のころの輸出用で、ものスゴいキンキラキンの過剰装飾に近い九谷がありますよね。ああいう世界はああいう世界で、海外に持っていけば大人気だったんでしょうけど、それとは違うっていうね。
そこから代々そういうものがあったとして、上の世代の方と見附くんが違うっていうのは、さっきおっしゃった絶妙のバランス感覚というか、現代的なところもありつつ、煌びやかなところもあるという。まあ、やり過ぎていないところだと思うんですね。技術は勿論スゴいし。
見附:ありがとうございます。加藤さんにそう言っていただけると光栄です。
加藤:いやいや、とんでもない。でも、そこってけっこう誘惑が多いんじゃないかと思うんだよね。それこそ過剰装飾のキンキラキンにいずれなっちゃいそうな......。
見附:ええ。でも白の空間も大切にしながら。(茶碗を見ながら)きっとこれも外側をこれ以上描いたらしつこいと思うんですよ。中をしっかり描いているから。白を残して。
世良:十分足りている、でも過ぎていないってのいうのは見附くんに限らず、亮太郎くんも含め全員に言えることだよね。足りてないと力量不足だと思われる、でも過ぎてしまうと引き込まれないっていう、ものスゴく難しい世界だよね。陶芸家という作家の世界なんだよね。
土もちょっといじれるようになると、こんなのおもしろいかなとか、こんなに削ったらスゴいだろうとか思うけど、できて乾燥して置いてみると「なんか削りすぎたなぁ」とか思うしね。まだそこはスタートしたばかりの素人だから、焼いてみないとわからないとか、焼いてみて初めてあれがああなるのか、こうなるのかって思うところにいるので、やり過ぎるところもやってみようと思うんだけど。やってみないとわからないし......。
先日、某テレビ局の音楽の番組で生で演奏するときに、司会の方が生演奏ってところにものスゴく食いついたんだよね。ほかの人は歌は生だけど演奏はオケだったり、なかには口パクの人たちもいるのでね。ただ生演奏ってやり過ぎちゃうかもしれない、逆に意識し過ぎて足りないかもしれないという一期一会の世界で、やったものはその瞬間から過去になる。もう一回って言えないという一期一会な感覚が好きだって言ったら、そのコメントにけっこう反応が多かったんだけど、まさにこの陶芸の世界も世のなかにこれは一個しかないよ、でもこれを作っている段階ではこの作品の意図だったり、その思いって過去になっていくでしょ。
取り返せない。窯に入れちゃったらもう取り出せないし。そこで足りていないことがあったりするわけでしょ。
アスリートもそうでしょ。いくら練習で世界新を出したって、大会当日、その日その場所でその瞬間トップでいないと。だから、なでしこジャパンに対してもみんなあんなに狂喜するのであってね。
加藤:そうですね。シナリオもありませんしね。だからこそ感動するんだと思うし。
熱く語りあう左から見附氏、加藤氏、世良氏
世良:アスリートは体で体現する。われわれはモノづくりでそれを体現していく。そしてそれを手に取った人たちにそこまで感じさせることができたら、それはいい作品なんだって思うんだよね。それが生活のなかに入っていって当たり前のように繰り返し日々使われたらと思うよね。
話飛んじゃうけど、『マルモのおきて』をやっているときにみんなが陶芸に興味を持って、不格好なお皿やぐい飲みを作ったときに、「これに淹れて飲んだら美味しいだろうな」とか「ここにケーキを載せてみたい」って言ってくれたのが僕はうれしかったんだよね。でも、これはちゃんと(焼けて)帰ってこないんじゃない? ってのもあったし、やばいよってのもね。
加藤:ありましたね(笑)。(注12)
世良:たまたま知り合いがお抹茶を飲もうと思って「普通の茶碗でいただいたけどおいしくない。どうすればおいしくいただけるか」って聞かれたんだよね。「お抹茶茶碗で淹れて飲めば」って言ったら、ガイドブックみたいなものを買って茶筅なんかも用意して飲んでみたんですって。そしたらおいしかったと。
(一同笑)
加藤:今、世良さんのお話を聞いていて思ったんですが、日本人って元々すべてのものに神が宿る、「一木一草神宿る」っていいますが、そういう感覚がありますよね。
山を崇めて、川を崇めて、草木も崇めてって。そういう、宗教じゃないんですがそういうモノに対する思いを持っている民族だと思うんですが、そういうのに近いようなものを今のお話から感じました。
世良:茶の一服にホッとしたり、その器を手に取ったときにふっと見入って、畏敬の念を抱くっていうことが......。
加藤:大げさですけど、そこに神が宿るってことなんじゃないかなと思うんですよね。生活のなかに、ですけど。
世良:だから余計に、この匠の世界に邁進している我々から見たら若者、そのエネルギーがまさに"RISING SUN"なんですよ。特に今の日本にそういうことを感じさせてくれるものを作っていて、そういう会話ができて、そういう思いが形になって、時間を経て出てくるっていう、そういうことなんですよ。
加藤亮太郎氏
加藤:さっきも見附くんと話していたんですけど、みんな『焼物馬鹿』なんだと思うんですよ。言い方悪いですけど。
見附:はい。だと思います。
(一同笑)
加藤:みんな窯焚きだとか真っ黒になってやったり、見附くんは一日中筆を持ってずうっと描いているわけですから、やっぱりちょっとおかしいですよ(笑)。ホントにいい意味で焼物馬鹿ばかりだと思うんですよ。
みんなそれだけ焼物が大好きで、真摯ですよ、スゴく。人がやっていないものをお洒落にやってみました、って感覚でなくて、焼物好きだからこんなの作りたい、と素直に真摯に作る人ばっかりだなと思うんですよ。
世良:そうだね。どういう形のものを作ろうとも、どんなところでどんなふうに評されているのかは別にいいんだけど、その底流に流れるものが純粋であるかどうか。自分の思いがそこに乗っていればいいわけで。あとは自分らしいかどうかで選ぶし。まさか女子中学生が付けるようなものを僕がつけて「これいいっしょ?」って言っていたらおかしいわけで。
(一同笑)
ちゃんと自分と向き合った結果、そこに行きつくのかっていうところが大事で。そのものの生い立ちというか、人でいうところの素性というかね。それが大事なんだろうと思うね。
加藤:大きいものも作りたい衝動って出てくるんですよね。それをやらなきゃ上の段階にいけないというか。
お茶碗なんかは僕は作るのが楽しいので作ることに抵抗がないんですよね。ただ、大きいもの作ろうと思うと、それなりに大変ですし、まあ割れる可能性も高くなりますし、僕の場合は変な形も作ったりするのでね。でもやっぱり大きいものを作らないと同じ事の繰り返しになってしまうし......。大きいものって僕にとってはそういうものなんです。
見附:なんか不安になりますよね、作っていないと。
加藤:そうそう。小さいものは売れやすいし、動きやすいんだけど。
見附:大きいものってのは時間もかかるし、緊張もするし。作っていないと......。
加藤:ひとつの自分の見せ場っていうか、挑戦してやるぞと。これは人に喜んでもらえるものになるぞっていう、そういう、ひとつ上を目指すものって言えますよね。
世良:モノづくりするものの自我っていうか、カタマリみたいなものにぶつかっていきたくなるんだろうね。
加藤、
見附:ありますあります。
世良:その自我を乗り越えたところに「オレってちょっとすごいかも」って思えるのもあるしね。
(一同笑)
加藤:それはホントに作家としての快感みたいなところだと思うんですよね。
世良:それはなけりゃいけないと思うよ。禅僧じゃないんだから。自我や自噴にまみれている部分もあってしかるべきだし、そういうものがエネルギーになって生まれてくるものが、そこから正に転じるというか自分の気持ちをふっと取り戻すというか。そういった感覚は地に足を付けるエネルギーになるしね。
加藤:世良さんにとって上を目指すっていうのは新しい曲を作るとか、そういうことなんですか?
世良:僕の場合はライブだね。生で2、3時間オーディエンスの前で演奏しているときに、「昨日よりちょっといいかも」とか、その逆もあったりするけどね。
レコーディングはやっているうちにどんどん過去になるのよ。だからOK出しているんだけど、後から聴いてみて「あれ直せない?」「できないできない」みたいなね。それは窯から出てきたらやり直しきかないのと一緒だよね。レコーディングで何か次のステップというより、日々のライブで次にいくね。
加藤:じゃあ、新曲を作られるってのはどういう感覚なんですか?
世良:新曲ってのはやっぱりその時にいちばん伝えたいことだったり、日々やっているなかで生まれたその時のメッセージっていうか、であったりするんだよね。日々をやっていかないと新曲にはならない。僕は書き貯めたりしないのよ。ネタ帳みたいなのはない。「書くぞ」って気持ちになったらそこからグワーッと書くのね。
蓄積されたものはあるんだけどね。これカッコいいじゃん、ってのがレコーディングの日に持ち出したら「なんだ、つまんねー」ってことがあったのよ。詞は書きとめておくけどね。録り貯めていたデモテープは、8割以上ダメなものが多いんだよね。
加藤:さっきから逆質問みたいなんですが(笑)。世良さんが焼物を始めて、実際に土を触られたり、いろんな経験をされてきたことが音の方にどうやって跳ね返ってくるのかなってすごく興味があるんですけど。
左から見附氏、加藤氏、世良氏
世良:それってさっき言ってた「なんで音楽やっているんだろう」だよね。
それこそ30年以上やっているといろんな経験もしてきたし、仕事としてプロフェッショナルとして続けてきて、なんでやりたかったんだろう、なにができるんだろうと。衝動がなかったらステージに立てないよなとか、ステージに立つのが当たり前だと思っていた時期もあるんだよね。
僕は僕なりにインタビュー受けるとそれなりにカッコいいこと言えてたと思うんだよね。まだまだだな、青いなと思われていたかもしれないけど、そのときの自分はそれなりに「ロックとは」「未来のオレは」みたいなことがあったんだと思うんだよね。
今は逆にスタートしたころの衝動に勝っているのかな? とか。「おまえ、ホントに音楽やりたい?」「やりたい!」、「そこにギターあるけど弾きたい?」「弾きたい!」。「絶対に誰にも負けねぇ!」とか。
今、表現者としてアーティストと呼ばれるものとして、今の僕が今の僕として演奏する衝動がありますか? と。そこなんだなと。
一所懸命土を触っていて「あ、もう2時間たっちゃった」とか、肩が痛くなるくらい必死に土をこねていたり、菊練りの形になってきたら「ねえ、見て見て! これってこの(陶芸本の)ページにあるこれと似てない?」ってやっている時と、しばらくして手を洗ってライブがあるから練習しようとギターを手にした時とが同じ空気になる。
加藤、
見附:へぇーー。
世良:土こねているのと、ギター弾いているのが同じ空気になる。同じ空気感を僕自身が出しているんだよね。
加藤:それは、世良さんのなかでいろいろシンクロしてきている、ということですか?
世良:うん。そう。まったく別のものが音楽にシンクロしてくることによって、音楽をやる自分っていうのがよくわかる。きっと土を一所懸命こねてる自分が「カッコいいんじゃない?」って思えるっていうのは和先生
(注13)の奥さまがライブに来てくれて、ギター弾いてる姿を見て「あの陶芸の番組でろくろひいていた姿にそっくり」っておっしゃったの。「きっとこの人はこんな感じでろくろひいているのよね」っておっしゃった。そうかもしれないなって。映像としてダブるのかなって思うんだよね。
加藤:世良さんの自然なスタイルがもうそこにはあるわけですね。
世良:カッコいい言い方をすると、魂の高ぶりとか、ものを作る人間として、うまいヘタは別よ。集中しているときに出る空気がすっとダブるのかなって。それは多分そういうバイブレーションなのかなと。ただ、音楽でそのバイブレーションを出したときはスゴくうまいんだけど......(笑)。陶芸ではそのバイブレーションは出てるけど、うまいかと問われるとそれはまだまだなんだけどね。
(一同笑)
それはうまいヘタじゃなく、自分に向き合っているエネルギーとして正しいかどうかはそれでわかる。
ヘタだけど正しければ次がある。正しくなければ飽きちゃったりとか、ま、ここまで作れるようになったからいいかとか。陶芸がそんなんで音楽をやってもそれは一体になっていないよね。別物として楽しむということだよね。
変な話、ほかの趣味もいろいろあったけど、やめちゃったってのは音楽と一体じゃなかったんだなと。音楽で培ってきた根っこにあるバイブレーションが、土をいじっているときにちゃんとシンクロしているんだろうな。そうすると「これは長い付き合いになるかもな」って自分のなかで思うんだよね。
加藤:見附くんもそうですが、僕も書をやるんですね。
筆を持つようになって14、5年になるんですけど。それは趣味としてやっていたんです。で、筆を持って唐の時代とかの古い法帖を臨書っていうんですが、真似て書いてひたすら修練するんですが、それとは別に自分の創作として書を書いたり、墨遊びみたいなことをやったりしていたんです。それはホントに趣味で、自分の焼物の作品のなかでそれをやろうとは思っていなかったんですが、最近、織部の絵付けで書のものが出てくるようになって。
まさか焼物と書がいっしょになってくるなんて10数年前には思っていなかったんで。それがやっと最近出てくるようになって「あれ、びっくり!」って思っていたんですが、世良さんは焼物と関わられて数年後にそういうものがポンっと出てくる可能性があるわけですかね、音楽のなかに?
世良:たぶん僕が作る音楽のなかにある僕という人間像みたいなものが、今度は焼物として出てくるかどうかだろうね。作品がポンっと置かれているときに、「お、......世良公則だね」って思われるかどうかだろうね。
加藤:焼物の作品として、ですね。
世良:うん。パッと見てわからないかもしれないけど、世良の作品ってのを知ったら「ああ、世良だよ、これ」っていう。ジーンズにTシャツ姿でその辺歩いていて見かけた人が「あ、世良だ」っていうのと同じ。音楽聴いても「世良のスタイルだよな」っていうのと同じように「世良がいるじゃん、ちゃんと」と言ってもらえる作品を作れたらちょっとスゴいよね。音楽以外でそれができたらね。
加藤:そうですね。音楽のなかに世良さんの焼物が出てくることって......。
世良:具体的に詞で出てくるとか?
加藤:......ろくろの歌とか。
(一同爆笑)
世良:♪まわる まわる~、みたいな?
(一同笑)
そういう意味では、もう演奏のなかに出ていると思うけどね。うん。
たとえば「マルモ」のお仕事で真野響子さんが出演されて、お茶を淹れて差し上げたときに、たまたま(辻村)唯くんの作品だったんだけど、そこに焼き締めや志野が置いてあったのを見て、「あら、これステキね」って言ってくださったんだよね。真野さんはNHKの『日曜美術館』のキャスターを務められていたので、伊万里とか有田焼にスゴく詳しい方で、「私、焼物うるさいのよ」っておっしゃっていたから。
セットなのに「ここのお店いいわねぇ」って言ってくださって、お茶もきちんと作法にそった淹れ方をしているわけじゃないのに「おいしいわ」って飲んでくださって。要するに器だったりシチュエーションのなかでお茶をいただくという行為っていうのがわかってらっしゃる方だからね。器を見ながら「みんな主張してるわね」っておっしゃってたし。
加藤:スタジオのセットですよね。セットだけど世良さんスタイルの「KUJIRA」というお店でしたよね。それはスゴいことですよね。(注14)
世良:スゴくうれしかったのね。なんか僕がすごい芝居をしなくても、僕の仕事はこれで「出来」だなって。このドラマのなかで「いいお店ね」って言われる空間を僕は作ったんだぞっていうね。そこにはみんなの作品が力を貸してくれていて、でも、それを並べているのは僕だぞ(笑)っていうね。
加藤:世良プロデュースですよね(笑)。
世良:うん。そういう空間づくりってのは、音楽にも絶対出てきているね。それは僕よりもプロデューサーのSOGAさんのほうが気づいてくれている気がする。
加藤:SOGAさん、どうですか?
SOGAさん:......のような気がしますね(笑)。
(一同笑)
世良:僕はここまでとして、何か質問したいことありませんか?(と、いきなり世良さんに振られる担当)
ヤフオク:いきなりですね(笑)。では。さっき加藤さんのお茶碗を持たせていただいて、それをテーブルに戻した際に、SOGAさんが写真を撮るタイミングで、スッと向きを変えられたんですが?
加藤:顔。正面のことなんですが、カメラに顔を向けたということです。
ヤフオク:顔ですか。それは作るときにすでに意識されていることなんですか?
加藤:花器はぐるぐる回してもらってもいいと思っているんですね、見る角度によって景色が変わってお花を活ける人がこの角度がいいと感じられて、その角度に合わせてお花を活けると、そういうものだと思うんですが、お茶碗に関していえば、さっきも一生かかってもやりきれないくらいの難題や、って言いましたし、そう言われているものなんですが......。
やっぱり正面っていうのがありまして、物事には裏と表、顔と後頭部があって。茶碗の場合はここが正面で飲み口をここ(向かって右側)にして、高台はこういうふうにしてというように決めていくんです。順番としては正面を決めてから、まわりの景色を決めていくという流れにしています。
ま、ただ作家としてはこっちが正面というふうに作ってはいますが、使われる方がこっちのほうがいいよと決めてもらうのはまったく構わないんです。ただ、作家としての意識はこうですよっていうのはありますね。
見附:見たらわかりますよ、正面。これ、いいですよね。加藤さんがここを正面にしたってのはわかります。
---作家魂を見せられた対談はここで2度目のお茶タイム。過去2つの対談の話、8月三越日本橋の話などで盛り上がったのでした。
注1:日本橋三越での展覧会「世良公則feat.新世代陶芸"RISING SUN"」パンプレット冒頭の文章を世良氏が書いたもの。ちなみにパンフレットのグラフィックデザインも世良氏が手掛けている。
注2:七代加藤幸兵衛氏。陶芸家。幸兵衛窯当主。ペルシア陶の現代的な作風で知られる。加藤亮太郎氏の父。
注3:「世良公則feat.新世代陶芸家展"YOUNG BLOOD"」は、2010年4月に多治見の市之倉さかづき美術館と、名古屋のギャラリー東櫻で開催された。当時のメンバーは8名。
注4:2010年12月開催、九谷焼の伝統工芸士15名の展覧会。
注5:福島武山氏。陶芸家。石川県能美市在住。繊細精緻な赤絵作品で知られる。見附氏は1997年より師事、2007年に独立。
注6:見附氏は、ろくろ師の西田健二氏とコンビを組み制作している。
注7:多治見市市之倉の美術館。幕末から明治にかけて、加藤五輔をはじめとした
名工たちが作った精緻な染付磁器の盃数百点を展示。
注8:九谷焼の技術訓練学校。見附氏は1997年卒業。
注9:池田省吾氏。陶芸家。種子島在住。南蛮、粉引染付、織部を主に制作。
注10:陶芸家の辻村史朗氏、息子の辻村唯氏、辻村塊氏を指す。
注11:日本橋三越展のパンフレット用写真は、幸兵衛窯にて撮影された。撮影はSHOKO SOGA氏。
注12:「マルモ」のドラマ撮影の合間に、世良氏指導のもと陶芸教室が開かれ、出演者、スタッフが参加。作品は幸兵衛窯で焼かれた。
注13:山田和氏。陶芸家。福井県越前市在住。志野、織部、瀬戸黒、自然釉などの作品で知られる。山田大氏の父。
注14:「マルモ」で、世良氏扮する畑中陽介のお店「KUJIRA」で使われている食器は、ほぼ全て暁坏のメンバーの作品である。
◇世良公則feat.新世代陶芸家展~Rising sun~◇
2011年8月31日(水)~9月6日(火)
日本橋三越本店本館6階美術特選画廊
ミュージシャン世良公則氏のプロデュースする若手陶芸家10名の展覧会。
世良氏本人の作品(非売品)も展示いたします。ぜひご高覧ください。
=陶芸家=
加藤亮太郎(美濃)、古谷和也(信楽)、伊勢崎晃一朗(備前)
見附正康(九谷)、岸野寛(伊賀)、山田想(常滑)、清水志郎(京都)
山田大(越前)、辻村唯(奈良)、池田省吾(種子島)
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加藤亮太郎氏プロフィール
岐阜県多治見市在住
1974年 多治見市に七代加藤幸兵衛の長男として生まれる
1999年 京都市立芸術大学大学院陶磁器専攻修了
秋山陽先生、石川九楊先生に師事
2000年 家業の幸兵衛窯に入る
2002年 倒焔式窯を自ら築く
2006年 現代作家茶碗特集(日本橋三越本店)以後毎年
2007年 個展(松坂屋名古屋店)以後三年毎
2008年 個展(画廊光芳堂・岐阜)
茶器103の輝き~美濃の美展(古川美術館・名古屋)
2009年 個展(大阪高島屋)
2010年 個展(しぶや黒田陶苑・東京)
2011年 個展(アートサロン光玄・名古屋)
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見附正康氏プロフィール
石川県加賀市在住
1975年 石川県加賀市片山津にて生まれる
1997年 石川県立九谷焼技術研修所卒業
福島武山先生に師事
2000年 伝統九谷焼工芸展 技術賞受賞(05年、09年も)
2006年 経済産業大臣指定伝統工芸士に認定
2007年 日本陶芸展 入選(11年も)
2007年 自宅にて工房を構え独立
個展(オオタファインアーツ・東京、09年も)
2009年 全国伝統的工芸品公募展 経済産業省製造産業局長賞
第3位受賞
2010年 現代茶陶展 入選
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世良公則氏プロフィール
3歳から17歳までバイオリンを習う。
1977年、「あんたのバラード」で第14回ポプコングランプリと第8回世界歌謡祭グランプリを獲得。
世良公則&TWISTでデヴュー。それまでのロックシーンに変革をもたらす逸材として注目される。『宿無し』『銃爪』『燃えろいい女』など数多くのヒットナンバーを世に送り出す。
1981年12月ツイスト解散。以後、ソロアーティストとして活動。
1990年よりアコースティックサウンドを中心としたライブを行い、従来のアコースティックの概念を覆す世良独自の演奏スタイルが評判となる。また、国内外のミュージシャンとのセッションも精力的に行い高い評価を得ている。
近年、陶芸の世界に傾倒し実際に作品の製作を手掛け、作陶の指導にあたった若手陶芸家たちとのコラボレーション「世良公則 feat. 新世代陶芸家展 young blood 」(2010年)を主宰。新しい陶芸の楽しみ方を提案している。
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